水曜日 - 5月 23, 2007

もう一度仏陀の生き様について


仏陀の生き様こそ教え
 まえにこのBlogで「仏陀とはどんな人」と題して書いたことがあるが、確かにさとりは彼の人生において大事な一場面ではあるが、仏陀の生き様こそが教えであると書いたと思う。ここでもう一度書かなければならないと思っています。さとりは確かに重要なことがらだが、さとりは誰でも、何十年も生きていればふと思い浮かぶことががらなのです。そこからが大事なことなのです。それを実践することがどんなに難しいことなのかと言うことです。誰でも出来ることではないのです。だからその生き様こそが最も大事なことなのです。それを世の中の皆に解くことが。
 これは、親が子供に親の背中を見て世の中のことを教えると言うことに似ている。

Posted at 06:42 午後     |

木曜日 - 1月 25, 2007

感性について


人間は感性の生き物で、決して、理性の生き物ではない。日本では、あまりにも理性の教育が大切にされてしまい、感性の教育がおろそかにされてしまったのではないか。
 辞書で理性、悟性、感性を調べてみると、
大辞林 第二版 (三省堂)

りせい 【理性】
(1)感情におぼれずに、筋道を立てて物事を考え判断する能力。 「―をはたらかせる」「―を失う」(2)〔哲〕〔英 reason; (ドイツ) Vernunft〕
(ア)感覚的能力に対して、概念的に思考する能力。(イ)カントの用語。広義には、先天的能力の総称。このうち先天的認識能力を理論理性、先天的意志能力を実践理性と呼ぶ。また狭義には、感性・悟性から区別され、理念によって悟性認識を統一する能力をいう。(ウ)ヘーゲルの用語。抽象的概念の能力である悟性と区別される、具体的概念の能力。弁証法的思考能力。(エ)神の啓示に対して、人間の自然的知。(オ)宇宙や世界を支配する原理(世界理性・絶対理性)。
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ごせい 【悟性】
〔(ドイツ) Verstand; 英 understanding〕〔哲〕(1)広義には、論理的な思考を行う能力・知力を指していう語。知性。(2)カント・ヘーゲルでは、さらに理性とも区別される。(ア)カントでは、理念の能力である理性と異なって、感性に受容された感覚内容に基づいて対象を構成する概念の能力、判断の能力をいう。(イ)ヘーゲルでは、具体的普遍の認識に至る理性に対して、物を個別的・固定的にのみ見て統合しえない思考の能力、非弁証法的な反省的・抽象的認識能力をいう。

かんせい 【感性】
(1)〔哲〕〔英 sensibility; (ドイツ) Sinnlichkeit〕
(ア)認識の上では、外界の刺激に応じて、知覚・感覚を生ずる感覚器官の感受能力をいう。ここで得られたものが、悟性の素材となり認識が成立する。(イ)実践的には、人間の身体的感覚に基づく自然な欲求をいう。理性より下位のものとされ、意志の力によって克服されるべきものとされることが多い。(2)物事に感じる能力。感受性。感覚。 「豊かな―を育てる」1pt.gif


西洋の哲学(カント・ヘーゲル)では、感性は、理性より下位のものとされきたのだが、決して、感性は、理性より下ではないと思うし、人間は感性の生き物だと思う。今の日本の教育があまりにも理性重視に立ってしまい、人の気持ちを理解するという感性を失ってしまっている。

Posted at 01:51 午後     |

火曜日 - 1月 18, 2005

仏陀は奇跡を起こさない


仏陀は普通の人

イエス・キリストは、神の子であり、マホメットは、預言者である。
仏陀は、人間として普通に生活し、普通に死んでいったひとりの人間です。
普通の人間であるからこそ悩み苦しんだのであり、何かをさとってからもまた、悩み苦しんだのです。
全ての真実はその生きざまにある。


Posted at 07:48 午後     |

火曜日 - 1月 18, 2005

仏陀とはどんな人


天上天下唯我独尊と言って生まれてきた人のことを東洋人としてもっと考えてみよう

『天上天下唯我独尊』 この言葉は、非常に自己を中心にすえた考え方ですが大なり小なりすべての人は一つの自己を持ってこの世に生を受けます。すべての人は自己を中心すえて生まれてくるのです。至極当たり前の言葉、こぐ普通の人間の誕生であるとも言えます。
 仏陀は二十九歳で妻子、国を捨てて苦行の道に入ります。現代人からすれば至極身勝手な行動と受け取られるでしょう。
その苦行の末に菩提樹の下でさとりを開いた経過を箇条書きにしてみます。
《自分中心の考え》自分の心の命ずるままに修行へと向かう
         ↓
《自分》     あるがままに生きるから始まった仏陀の考え(能動的な考え)
         ↓さとり・直観(逆転の発想)
《全てのものへ》 森羅万象全てのものを在るがままに受け入れる考え(受動的考え)
         ↓(第一のさとり)
         人は一人では生きられない(全ては関係性の中に成り立っている)
         ↓(第二のさとり)
         自分と言う己を捨てられるのか
         ↓(第一、第二のさとり)
         自分から他者へ(全てのものへ)
さとりを開いてからそのさとりを実践する仏陀の生き様そのものが仏陀(釈尊)の教えです。
参考図書:釈尊のさとり 講談社学術文庫 344


Posted at 07:47 午後     |

火曜日 - 1月 18, 2005

魂の根源


魂とは?

仏教的に言うならば森羅万象全てのものに魂は存在する。道端に転がっている石にも魂はあると言っている訳ですが、その魂はどこに宿ると言うのでしょうか。ものをつくる職人さんは、自分のつくったものに魂を込めると言います。魂とはいったいなんですか。魂の根源と言った場合の魂のもとって何ですか。私が思う魂とは、自分自身の心に常に存在しているものであり、自分の心にその存在を見ると言うこと、すなわち自分の心が、森羅万象全てのものに魂を観ると言うことだと思う。『自分と森羅万象全てのものは、一体である(同化する)と思う心』だと考える。全ては自分が思う心にある。


Posted at 07:46 午後     |


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